続いてもう一つ、今回の経験を通して考えた「アニメ撮影における映像表現的側面」について。
・素材か、作品か
撮影という部署は各カットを構成する全ての素材が集まるため、僕はこれまでそれらをあくまで「如何様にでも調理可能な素材」として見てきた。が今回のように沢山の人が参加する作品に参加できたことで、この考え方は少々傲慢ではなかったか、と反省している。
つまり、撮影にとっては素材に過ぎなくても、それを制作した人にとっては大事な完成品だった、ということだ。全く弄らない、ということは無いにせよ、ある程度見栄えに手を加えるのであれば、事前に確認を取っておくべきだったかもしれない(先に挙げたコミュニケーションの問題も絡んでいる)。
どこまで素材を活かすのか、どこまでそれに手を加えるのか。これは(少なくとも僕にとって)いつも頭を悩ませる問題である。きっとその都度、監督、演出の意図を理解し、最善のアウトプットを心掛け、共にそのカットを作る担当者とすり合わせていくことになるのではないか。
・インプットとアウトプット
無い袖は振れない。自分の中に存在しないイメージは決して作り出せない、ということである。アウトプットは実はインプットと殆んど同義だから、如何に多くのイメージを自分の中に取り込んでいくか、ということが撮影としての幅を広げることに直結してくると言えるだろう。
僕は果たして見えているだろうか。自分の言葉で語れなくては言葉を理解したことにはならないのと同じ意味で、そのイメージを理解できているか。結果は一目瞭然である。
インプットすべきもの、演出指示もその一つ。カメラによる撮影時代から確立された「パラ」、「ダブラシ」、「つけパン」といった符丁は、業務をこなす上では一通り身に付けておくべきいわばマナーのようなもの。
しかし、マナーはマナーで身に着けつつも、そこからはみ出た行動が全く出来ないのでは、映像表現もまた凝り固まった時代錯誤のものになってしまいはしないか。現状は、かつての「撮影台の模倣」という一つの約束事に過ぎない、ということを意識のどこかに残しておきたい。
また、先日のプレゼンにて「カラーマネージメント」の問題が指摘されていたが、恥ずかしながらそこまで正確に問題を把握していなかった。多様化した映像再生環境においてどこをターゲットにした絵作りをしていくか、知らなくては、考えて身に着けていかなくてはならないものは幾らでもある。
以上、長い長いまとめひとまず終了。正直今回の仕事の出来栄えは(自分の領分に限って言えば)赤点ぎりぎりだったと思っている。関係者の皆さんゴメンナサイ。
がしかし、これを契機に色々考え、知り、得るものは十二分にあった。いつの日かこれをアウトプットする機会を与えて貰えれば嬉しいです。
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